1月17日の日記
2008年1月17日あれから13年。
当時、大学生だった私は、
神戸の灘区で一人暮らしをしていた。
朝、ごーーーっていう地鳴りみたいな音と共に、
突き上げるような揺れ。
何があったのかわからないまま
フトンにくるまっていた。
ぐちゃぐちゃになった部屋を片づけて、
しばらくぼーっとしていた。
ただ、余震がくるたびに心臓が早くなって、
ずっとベッドで丸くなっていたのを覚えてる。
お昼過ぎに外にでてみると、
倒壊した家、半狂乱になってる人、公衆電話に並ぶすごい数の人、
そんな光景がまるで映画のようですごく怖かった。
やっと公衆電話で実家に電話をしたのが夕方で、
お母さんは気が狂ったようになっていた。
連絡がずっとつかなくてもうダメだって思ったらしくて。
そのときはテレビも何も情報がないから、
どんなことが起きているのかもわからなかった。
そして、一晩、ほとんど眠れずに過ごして、
翌朝、簡単な荷物を持って、大阪へ歩き始めた。
電車が通じていた西宮までの道のりで見たことは
今でも忘れられない。
飲み物も食べ物もなくて、疲れ果てて芦屋で座りこんでいたとき、
とめどなく涙があふれてきた。
それを見た若い夫婦が声をかけてきてくれて、
「頑張ってね」
といって、ロールパン1つとお茶を一杯くれて、
もっと泣いてしまったのを覚えてる。
名前も聞かなかったけど、
その優しさがすごく温かかった。
それから実家に帰る飛行機のキャンセル待ちまで3日間
友人の家に泊まらせてもらった。
友達も私がどうなっているかわからなくてすごく怖かったこと、
自分が何もできなかったことが悔しいっていって
私に会った瞬間、すごく泣いてくれた。
今でもあの時のことを思い出すのはとても辛くて、苦しい。
なにより、6000人もの尊い命が失われたこと、
心よりご冥福をお祈りします。
当時、大学生だった私は、
神戸の灘区で一人暮らしをしていた。
朝、ごーーーっていう地鳴りみたいな音と共に、
突き上げるような揺れ。
何があったのかわからないまま
フトンにくるまっていた。
ぐちゃぐちゃになった部屋を片づけて、
しばらくぼーっとしていた。
ただ、余震がくるたびに心臓が早くなって、
ずっとベッドで丸くなっていたのを覚えてる。
お昼過ぎに外にでてみると、
倒壊した家、半狂乱になってる人、公衆電話に並ぶすごい数の人、
そんな光景がまるで映画のようですごく怖かった。
やっと公衆電話で実家に電話をしたのが夕方で、
お母さんは気が狂ったようになっていた。
連絡がずっとつかなくてもうダメだって思ったらしくて。
そのときはテレビも何も情報がないから、
どんなことが起きているのかもわからなかった。
そして、一晩、ほとんど眠れずに過ごして、
翌朝、簡単な荷物を持って、大阪へ歩き始めた。
電車が通じていた西宮までの道のりで見たことは
今でも忘れられない。
飲み物も食べ物もなくて、疲れ果てて芦屋で座りこんでいたとき、
とめどなく涙があふれてきた。
それを見た若い夫婦が声をかけてきてくれて、
「頑張ってね」
といって、ロールパン1つとお茶を一杯くれて、
もっと泣いてしまったのを覚えてる。
名前も聞かなかったけど、
その優しさがすごく温かかった。
それから実家に帰る飛行機のキャンセル待ちまで3日間
友人の家に泊まらせてもらった。
友達も私がどうなっているかわからなくてすごく怖かったこと、
自分が何もできなかったことが悔しいっていって
私に会った瞬間、すごく泣いてくれた。
今でもあの時のことを思い出すのはとても辛くて、苦しい。
なにより、6000人もの尊い命が失われたこと、
心よりご冥福をお祈りします。
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